「世の中、お金が全てではない」
本当かな…
このようなことを最近考えてしまいました。
先日、息子が炊飯器の内釜を割りました。陶器でできているため、簡単に割れてしまいました。ご飯が炊けなくなってしまったので、どうにかしなくてはということで、我が家で会議が行われました。
①同じような性能の新しい炊飯器を1~2万円で買う。
②内釜のみだけ買う。ただ約2万円する。
現在使用している炊飯器が、約3万5千円です。3年前位に親戚からプレゼントされた炊飯器です。
合理的な選択をすれば、①の「新しい炊飯器を買う」だと思います。炊飯器をプレゼントしてくれた方も新しい炊飯器の購入を勧めてくれました。しかし我が家は、内釜をあえて購入しました。
主な理由です。
物を大切にしたいと思いました。炊飯器本体は動きます。
プレゼントしてくれた方の当時の気持ちを考えました。
また、3年使った炊飯器に愛着が湧いたのかもしれません。
世の中は、価格や効率などを理由とし、合理的な判断や行動から動くことが多々あると思います。
なお「合理的」とは『広辞苑』によると、
①道理や理屈にかなっているさま。
②物事の進め方に無駄がなく能率的であるさま。
とあります。
私が鍼灸師へと転職を決意した時代は、安定的な雇用形態の特徴であり日本的経営の特徴である三種の神器といわれた終身雇用制度や年功序列型賃金体系がまだ色濃く残る時代でした。当時、鍼灸師への転職の選択は、金銭や雇用の安定という面でいえば合理的な判断や行動ではなかったかもしれません。鍼灸師は賃金や雇用という面では安定しない浮き草のような職業です。
しかし、鍼灸師という職業の道を選びある意味では非合理的な選択をした私と家内です。まだ使える炊飯器を廃棄して安いからと合理的に価格のみに目を向け、新しい炊飯器を購入することはできませんでした。価値観なのか生き方からなのか「お金が全てではない」と結論付け、内釜購入を選択しました。
ニコニコ笑いながら走り回る息子を横目に、割れた鍋を見ながら「破鍋に綴蓋」ということわざを思い出しました。
破鍋に綴蓋(われなべにとじぶた)『広辞苑』
破鍋にもそれに相当した綴蓋があるように、どんな人にもそれ相応の配偶者がある。また、配偶者は自分相応のものがよいというたとえ。