はじめに、私は無宗教者で無哲学者です。
昔から、中立を目指しています。
贖罪(しょくざい)とは、広辞苑に下記のようにあります。
①体刑に服する代わりに材物を差し出して罪過を許されること。
②[宗]犠牲や代償を捧げることによって罪過をあがなうこと。特にキリスト教の教義の一つ。自らではあがなうことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によってあがない、神と人との和解を果たしたとする。
先日、献血センターから連絡がありました。
HLA適合血小板献血に協力いただきたいとのことでした。
血小板を必要としている人がいるが、血小板の抗体が適合する人が現在いないとのことです。
要は、緊急で私の血液の成分を必要としている人がいるとのことでした。
私は献血を60回以上、行っています。
骨髄バンクにも登録してあったと思います。
しかし、特に善意の心などは意識したことはありません。
見返り、対価も期待していないので献血に行ってもお菓子は食べませんし、ジュースなどもほとんど飲まずに水を飲んでいます。
ただ、血液のデータが欲しいというところはあります。
献血センターから緊急で連絡があったこの機会に、30年以上献血をしていますが、何故献血をしているのか自分に問うてみました。
一つの答えが、贖罪でした。
私は普段、悪いことをしているわけではありませんし、人に迷惑をかけるようなことをしているわけでもありません。
ウソをつくのも嫌いです。
しかし若い頃を振り返ると、こうしておけばよかったということは多々あります。
例えば、今なら優しくできるのに当時はできなかったこともありますし、若い頃は人を傷つけてしまったこともあります。
今でも、疲れている時は愚痴っぽくなったりと反省するようなことはあります。
長い生活の中で、何か反省するような行いを、自分の提供できる何かを差し出すことによって二つを中和させているようでした。
宗教や哲学に無頓着な私が、贖罪というような考え方や概念、行動を取り入れていることに気がつきました。
無償で自分の何かを提供して、精神的なバランスをとっているようでもありました。
これは、献血に限ったことではなく義援金などにも協力したりとあてはまることがあります。
見方によっては、贖罪を行い精神的に自己満足しているだけなのかもしれませんが。
さて、予約をとり平日の雨の中、新宿まで電車で献血をしに行きました。
が、ヘモグロビンの濃度が12必要なところ、11.5しかなく献血をすることができませんでした。
献血ルームの担当者は、お仕事のなか来ていただいたのに申し訳ありませんとありました。
がっかりとする顔がありありと感じられました。
こちらも準備していただいたのに、血液を提供できなかったので、申し訳ありませんといいました。
ただ、私は血液を提供しようと決断し、台風が近づいているさなか新宿まで足を運んだ時点により、自分の中の贖罪は完了していたので落ち込むことはありませんでした。
少し冷たいようですが、ヘモグロビンについてはあちら側の規定、都合です。
ヘモグロビン値が11.5であっても、私は血小板を提供することを厭(いと)いません。
検査で血液を提供した時点で、私にどうこうできることではありません。
血液を待っていた人は、残念だと思いますが。
看護師との会話で、「お肉を食べていますか?」と問われました。
私は「あまり肉は好きではなく、魚の方が好きです。最近、肉は食べていません」と答えました。
肉を食べなかったことがヘモグロビンの濃度を下げてしまった理由かもしれませんとのことでした。
今回の献血で私の贖罪は終わりではありません。
次回の献血までに、「食材」も考えてみたいと思います。